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尖閣対談(上) 今だから話そう! 1978年 尖閣上陸作戦の全貌

政治家と民族派が共同戦線

国際武道大学理事 大平光洋氏
日本経営者同友会会長 下地常雄氏

 石原都知事の尖閣諸島の東京都購入発言は日本国民の愛国心を喚起し、6月中旬で既に11億円の寄付金が集まった。とりわけ一昨年には中国船の尖閣沖領海侵犯事件があったばかりで、多くの国民は政府の不甲斐なさに呆れたものだ。また、このまま民主党政権に任せていては「日本は危ない」とも思っている。尖閣諸島は地理的には九州南方にある南西諸島の小さな一部に過ぎないが、この尖閣が保持している「国家の尊厳」や地政学的な価値は図り知れないものがある。34年前の昭和53(1978)年に尖閣上陸作戦を敢行した国際武道大学理事の大平光洋氏と日本経営者同友会会長の下地常雄氏が、長い沈黙を破りその全貌を話し始めた。


下地 最初は大平先生から尖閣上陸を言われて使命感に駆られ、何としてでもやり遂げましょうということでスタートした。

 政治関係は大平先生の方で仕切り、沖縄での上陸決死部隊は私が担当した。

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大平光洋氏

大平 中国から漁船に偽装し200隻ぐらいの船団が尖閣諸島の実効支配にやってくるということで、それじゃ何とか先手を取って中国の企みを食い止めにゃいかんぞということで、毛利松平や石橋和弥、長谷川俊、それに灘尾弘吉とかね、そうそうたる代議士も立ち上がった。

 僕は永田町の十全ビルにいたから、そのとき、中川一郎とか中尾栄一とかあそこは青嵐会の連中が多かったから、「大平さん、ぜひやってくれ、われわれが全面的にバックアップするから」という話の下に、やることになった。

 片山君といって頭山満の孫である頭山立国さんの門下生だったのが、僕の秘書になっていた。それで立国さんとも話し、こちらが実効支配しないと韓国の竹島みたいになってしまうとの懸念から始めたものだった。

 当初、沖縄でだれかいないかと探した。もともと沖縄のためにやるわけだから、沖縄で立ち上がる人物が必要だった。

 それじゃ下地さんだと紹介された。それで「頼むよ」ということで、始めたのが真相だ。それに羽地さんも加わった。

 羽地さんは沖縄だけでなく、八重山諸島一切で実力をもっていた。その羽地さんに下地さん、いずれも宮古島の出身だから、互いに気持ちが通じあう世界がある。ともかく第一回目は何とか日本人が上陸して、実効支配しているという形をとらなければ、中国が占領したらどうしようもなかった。

 ただ現実の話、宮古島出身のこの2人の力がなかったら、尖閣上陸などできるわけがなかった。

 というのも当初、沖縄から尖閣へ出航させようとしたが、海上保安庁の警備が厳しくて船を出せる状況にはなかった。それで尖閣に一番近い石垣島も検討したが、石垣島はもっと厳しかった。

 結局、穴場は宮古島だった。それで宮古島からの出航と切り替え、宮古出身2人組の下地さんと羽地さんの底力を頼ることになった。

 それで、尖閣の第一陣上陸実行部隊は頭山門下の関二郎率いる石門社と赤誠会の2つの団体がやろうということになり決死隊を作った。

 あのころは日中の国交が締結されたばかりだった。その関係で田中角栄と周恩来との間で、一応、尖閣は棚上げにしようという話になっていた。それで政府は、尖閣上陸というのはやめてくれという話だ。だから、海上保安庁も尖閣への上陸を一切、認めようとしなかった。

 それだけにものすごくうるさいのよ。

伊良部島から出航

下地 それは半端じゃなかった。尖閣に手を出そうものなら逮捕されるようなピリピリした感触だった。

 僕が尖閣に行くための物資を一人で集めたが、公安とかが警戒網をびっしり張りめぐらせていた。それでスーパーなどにも大量にものを買う人がいたら全部通報してくれと連絡がいっていたので、物資の確保だけでも大変だった。

 ある時、米を5袋買ったら、白バイに乗った警官から「こんなに買ってどうするのか。普通、そんなにいらないだろう」と尋問されたこともある。あの時は、免許証も調べられたし、車の中も全部くまなく調べられた。車にはたまたま米以外には置いてなかったし、当時「NOCモータース」というオートバイ販売をやっていたことから、白バイ警官も知っていて何とか難を逃れた経緯もある。

大平 船頭だって尖閣に行く奴はいなかった。捕まったら漁業の免許を取り上げられてしまう。さらに罰金もくらうことになる。ひとつの船を出すだけでも、それだけだって1000万円ぐらいかかるのよ。罰金まで考えると莫大なものになる。

下地 総経費は一億円ぐらいかかっているとおっしゃる人もいるが、それほどはかかっていない。ただ3000か4000万円ぐらいはかかっている。

──一次、二次合わせての経費か?

下地 そうだ。

──決死隊は20人ぐらい?

下地 そんなにいない。15人程度だ。

 僕も本当は行く予定だった。しかし、10人しか乗れない小さな船でだめだった。大きいのは伊良部島の方に留めていて、小さな船で伊良部まで行き、それで乗り換えて尖閣へ行くという事にした。

大平 沖縄というのはプライドが強い。沖縄民族としてかつて、明に属するわけでもなく日本に属するわけでもなかった。自分らは独立民族であるという考え方が強かった。

 しかし、明から清に変わり、清も衰退してきた。清は頼りにならない。そこを突いて薩摩が征服してしまったのが歴史の事実だ。

 それ以来、明治政府になっても琉球王朝を潰したまま、沖縄県に属させたという経緯があるから、沖縄の人そのものというのは、独立心が強く、民族的なプライドが高い。今でもそうだよ。

 沖縄の人間は「ウチナンシュウ」といった。日本は「ヤマトンチュウ」だ。

 今でもそういうものがある。

 普天間問題で今でももめたままだが、そういうのも下地君に言わせると、やり方がへただという。要するに、沖縄の基地問題を自分ら本土の意向でやっているような考え方ではだめだというのだ。もっと沖縄人のつもりになって、プライドを崩さないような対応が必要だという見方をしているが、俺もその通りだと思う。

 そうすれば普天間問題というのは、袋小路に入るような問題でも解決しない問題でもない。

 結局、そういう格好で始めたわけだよ。こちらは領土問題国民会議を作って、右翼の全愛会議の荻島峯五郎議長、青思会の高橋正義(まさよし)議長、頭山立国氏、それに日本青年社の衛藤豊久氏と、これでもって日本の右翼が結集したという形をとった。

 それで頭山氏を議長にしようということで、みんなの了解をとった。ただ領土問題国民会議が沖縄のためにみんなで協力してやるということで、主体はあくまで沖縄だった。沖縄人が沖縄のためにやるのを、国が占有しようという話がきていて領土に絡むから、そのためには右翼全体として協力してやろうということだった。

 政治家もしかり、あくまで主体ではなく協力する格好だ。そういう形を作りあげた。あくまでも主体は沖縄だった。それで、沖縄で一番動けるのは下地さんに羽地さん、この二人の実力者がいれば、何とか船を上陸させることはできるだろうという考えの下にやった。

 最初に上陸したのは一次隊の関が団長を務めた石門社と赤誠会、二次隊は大日本同胞社藤元団長だったが、これらを合わせると全部で30人ぐらいは行っているはずだ。

 その連中は、われわれがそこを占有したんだとか、上陸したんだとかということは一度も言っていない。一切、言わないよ、あくまで主体は沖縄で、それに協力する格好だから。

 何よりみな侍だから、そういうのをおこがましく自己宣伝するような人物ではない。

 ところが二、三、そういうのを聞くこともあった。「私がやった」とか「尖閣を占有したのは自分だった」とか。しかし、そういうことを言うのはこの連中じゃない。

 実際はそういう風には一切、言っていない。

船頭に渡した500万円

下地 だから自分が行ったとかいろんなことを言っているものだから、当初、黙ってみていたけれど、ある程度、本当の真実をいう必要があるのではないかということで大平先生に出てもらった。

大平 俺だって、この間まで一度も言ったことはない。この前、たまたま写真週刊誌のフラッシュが聞きにきたから、ちょこっと話したけど、あれが初めてだ。だが、下地君とか大平がやったというのは知っている人は知っている。

下地 ただ船をチャーターするのだけれど、十日間ぐらいだめだった。最初、船のチャーター代として300万円用意した。船長はにべもなく、だめだと言う。勘弁してくれと言う。3回、4回頼んでも頭を縦にふることはなかった。

 青年たちは全員、旅館に分散して待機したままなのに、船の手当てもつかないようじゃ先が思いやられた。それで羽地さんに、ため息をつきながら「経費もかかるし、どうするや」と相談したのを覚えている。

 漁船が出ないとパーだから、それを一番、肝心なところをやったのは羽地さんだった。

 羽地さんは、「俺が腹をくくって、船長を口説く」と言ってくれた。船を手当てするために最終的に用意した資金は500万円だった。

 それで、船長を旅館に呼んで、目の前に500万円の札束と隣に包丁を置いて、「どっちを取るのか」迫った。でもその時、普通にヘラヘラ笑いながらやったら、間違いなくだめだった。その迫力たるや現場にいないと分からないが、普通の迫力じゃなかった。船長は本当に殺されると思ったに違いない。

 ただ金は持って行ったけど、金だけもって逃げたのと違うか、という疑いもあった。

 そうしたら、しばらくたって船長がきて、「警察がチェックしているので、ここの桟橋からは出られない。それで伊良部の方に本船をもって行く。こっちは小さな船しか行けないから、乗船は10名」となった。それで伊良部に全部、物資を別に運びこむはめになった。

 当時、厳重警戒網を張った海上保安庁の船が、ぐるぐる回って巡回して警戒している。息を潜めて巡回船をやり過ごして決行するしかなかったが、決行日はそれもよりによって、満月の夜だった。

 その決行日の夜、宮古の港から一人一人乗り込む手はずになっていた。だが、パトカーが車を止めて何時間と港を監視したりして簡単には乗り込めない。みんな息を潜めてじっと待った。それで静寂のままの港に安心したのか、パトカーが動き出し、次の巡回地へと向かっていった。その頃合を見て、港に停泊させている船に一人一人乗り込んでいった。

 石門社が初めに乗りこんだ。関さんは体が大きいものだから最後に乗り込んだ。それで、しゃがんでも尻隠さずで入りきれない。船の中に入れず、上でお尻を出したまま、それで日の丸の鉢巻をきりりと締めてという、今思うと滑稽な姿で乗り込んでいた。

 それで、もし警察が来たら、海に飛び込んだり放り投げる手はずだった。そうすれば担当は海上保安庁になり警察は関係なくなる。そこまで準備した。

 陸のパトカーだけでなく時折、巡回に来る海上保安庁の巡視艇をやり過ごして満月の夜、尖閣上陸を目ざした船が伊良部の港から出て行った。

 100メートル近い桟橋を先まで羽地と一緒に歩いていって見送った。宮古の港を出た船は煌々と照りつける月光の下、波しぶきを上げながら黒潮の海をどんどん進んでいく。

 何とかやるべきことをやったといった感じで、へたへたと腰が抜けたように桟橋の先に座りこんだ。そして漁船の音が聞こえなくなるまで、羽地と見送った。だんだんと遠くなって行くその船をじっと見ていると、こみ上げてくるものを禁じえなかった。あの時は、不覚にも涙がぼろぼろ出てきた。横を見ると羽地も一緒になって泣いていた。

 振り返れば、走馬灯のようにここまでの過去が思い起こされた。ちょっとオーバーかもしれないけど、「前門の虎に後門の狼」といってもいい窮地を潜り抜けた達成感というか不思議な感覚だった。それで、いい大人が二人して純粋な乙女のように泣いて見送ったのを、今でも鮮明に覚えている。

石原慎太郎氏が出したセスナ機

大平 尖閣では、ここは日本国の領土と書いたり、日の丸を掲げたり、簡単な灯台みたいなものを作ったりした。ただ電灯がついているから灯台といった基準の懐中電灯を棒にくくったようなものだ。

下地 船が出たのはいいが、一週間ぐらい全く音信不通だった。片山と話したのだが、沈んだのかもしれないと心配で、もう眠れなかった。

大平 食料も運んだ。

下地 ダンボールに30何箱あった。

大平 おれがセスナで飛んで、上から落とした。

下地 米をいっぱい買い込んでセスナで行って、ビニールで50回ぐらい巻いて、落とした。ただ下で破裂して、何にもならなかった。

大平 事務所に出入りしていう後輩から聞いたのだが、彼らは落ちたのを砂浜で拾って、砂が入っていたから洗ったが、洗った米というのはぜんぜん持たない。それにもかかわらず、食い物がないから全員が食べたら、みんな腹をくだしたということだ。

 知恵がなかった。あれを風船でもつけて、低空飛行すれば何とかなると思ったのが間違いのもとだった。

 高度がせいぜい100メートルだからなー。それだとみんな潰れるわなー。

 缶詰や缶ジュースもみんなパーだ。

──セスナ機は大平さんがチャーターしたのか。

大平 乗ったのは俺と片山だったが、セスナ機を出してくれたのは石原慎太郎氏だった。始めは中川一郎氏とか、政治家に話したが、その時、議員会館には石原さんは辞めていていなかったが、非常に意欲的で、当初から参加し協力して自分も上陸したいと言ってきた。それで毎日のように石原さんと会うようになった。

 ただ石原さんの影響力は大きく、石原さん関係の青年たちが上陸したので、海上保安庁は一切、手を出さなかった。

無我夢中の一本道

──海上保安庁に、そういう牽制球を送ったのは石原さんだったのか。

下地 そうだ。

大平 青嵐会の中では石原さんが一番熱心だった。わざわざきて協力したいからということで、永田町のグランドホテルに構えていた石原事務所でしょっちゅう会っていた。

 それでその時、セスナ機を出して沖縄から飛ぶように手配してくれた。

 そういうわけで私と関二郎氏が、食料を積み込んだセスナ機で沖縄から隊員が上陸している魚釣島に向かった。そしたら後ろから海上保安庁の飛行機が付けてきて無線で「どこへいかれますか」と言ってきた。こっちは「遊覧飛行です」と応えると「分かりました、気をつけて行ってらっしゃい」と引き返していったんだ。

 それから30分ぐらいで魚釣島の上空についた。下を見ると四隻くらい海上保安庁の巡視船が既に待機しており、サーッと集まってきた。こちらを見張ってるんだ。そこでこっちも遊覧しているように島をぐるっとまわって沖縄方面に引き返すかのように見せかけた。すると巡視船は安心してか、また散らばって見えなくなった。それっ、と魚釣島に機首を向けて、すばやく食料を島に投下したんだ。そうしたら途端にみんな集まってきた。

 そして、そのまま石垣に飛んだ。その石垣で警察は待っていた。それで羽地さんと「こっちにいらっしゃい」となった。お縄でも頂戴するのかと思ったが、どっこい逃げ道を用意しておいてくれて逃がしてくれた。

下地 逮捕されると思ったから、石原さんがプレッシャーをかけたもようだ。

大平 そうだろうな。

下地 石原さんがそう言っていた。

 それにしても振り返ると、あの時は実に楽しかったというか夢中だった。ただ、もう一度やれといわれても出来ない。不思議なことに当時の写真が一枚もない。写真を撮っておいて後々のために記録を残しておこうという余裕どころか、ただ尖閣上陸という頂を目指した一本道を走り抜いたというのが実感だ。

大平 あの時はみんな燃えたからな。それに沖縄のためにということで、2人でがんばったからできた。

下地 資材を集めるだけでも3ヶ月間かかって、それだけでげっそりやせた。

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